創業 昭和60年2月
設立 平成3年10月
弊社は昭和60年2月に私が1人で中古4トン平ボディ車1台を取得し創業致しました。
4トン平ボディ車を選択した理由は、取得するのに安かったから単純にウイング車を取得する購入資金がなかったからです。
20歳という年齢のせいもあり経営などという考えは微塵もなくただひたすら任された荷物を運び日本全国を走り回るという形で弊社は創業致しました。
良くいえば「純粋」・悪く言えば「無鉄砲」
矢沢永吉の大ファンだった私の心には、いつか永ちゃんのようにBIGになる!!
他人よりたくさん走り続ければ明るい未来が待っているこんな単純な考えでした。
今、振り返ってみると当時の日本経済はバブルといわれる好景気であり社会的信用のない私のような個人事業者にも物流の依頼はたくさんありました。
しかしそれが当たり前だった時間はそんなに長くはありませんでした。
創業から数年後のバブルの崩壊、終焉時期についてははっきりとしませんが戦後経済成長を続けてきたこの日本では誰もが信じられないような経済の崩壊でした。
取引先の倒産や先行き不安を目の当たりにしてこのまま個人経営ではこの状況は乗り越えられないままバブルの崩壊に巻き込まれてしまうそう考え、平成3年に法人化を致しました。
平成3年10月1日 法人化
法人化した最大の目標は、一般貨物自動車運送事業の許可の取得にありました。
当時は新規で許可を取得することは非常にハードルの高いもので実現が可能なのかもわからないままでしたが、挑戦するしかないという気持ちで突き進みました。
法人化したものの法人経営に関しては、ど素人の私、変動費!?固定費!?減価償却!?ただひたすらトラックに荷物を積んで走ればお金が回ると信じていた自分に課せられた現実は非常に辛い資金繰りでした。
今でこそ語れますが、月末になると資金繰りで走り回りました。
当然、開業直後の会社には、銀行はお金を貸してはくれません。
資金ショートの分は、最初は自分の預金を使いました。
しかしわずかしかない預金はすぐに底をつきました。
そこからは個人で借りるしかありません。
なぜこれだけトラックが走っているのに資金が回らないのか????
考える間もなく恐怖の月末がまた来る
そんな追い込まれた状況の中でも
「常に前を向き続けるしかない」
「後戻りしたら自分のやってきたことはすべて無駄になってしまう」
気が付けば10人という従業員数。
「私を信じて付いてきてくれた彼らを路頭に迷わせるわけにはいかない」
そんな気持ちで頑張り続けている間に取引先も増え売掛金の回収バランスも少しずつ良くなり、資金繰りもなんとかなり始め、約1年続いた最悪期を脱することが出来ました。
平成4年12月25日
一般貨物自動車運送事業
許可取得
(中運自貨二第1487号)
当時の運輸省(現、国土交通省)から一般貨物自動車運送事業の許可を取得出来ました。
余談ですがこの翌年、平成5年5月3日に私の長女が生まれました。
娘の名前は、桃佳(ももか)今でも弊社のトラックに書かれています” 桃佳丸”という看板はここから来ています。
話を元に戻します。 順風満帆とは言えない経営状態ではありましたが、徐々にトラックも増えるとともに 従業員数も増え賃貸事務所、賃貸駐車場も手狭になってきました。
平成11年3月13日
本社移転
現在本社のあります焼津市一色にて土地を取得し事務所を建築し本社を移転致しました。
金融機関の融資を受けての実現ですが、土地、建物を自社所有に出来てやっと企業経営者になれたんだという気持ちになったのは今でも忘れません。
現実は、そこから長期の返済があることも忘れて・・・
好き勝手をしてして生きてきた自分に変化が訪れたのはこの頃かと思います。
土地を取得したという事はここに根を張って商売をしていく その為には、
「近隣の皆様に嫌われる企業であってはいけない 少しでも社会に貢献していかなければいけない」
少しずつですが、そう考えるようになりました。
まずは弊社近隣住民の方々に対しての貢献 弊社敷地内で夏祭りを実施し模擬店を開き、近隣住民のご招待 年2回、地域の河川清掃に毎回10人~20人の社員参加、小さなことですがそんな事をしながら近隣の方々に温かく見守られるようになって行きました。
平成15年6月1日
有限会社から株式会社に
組織変更
社歴も12年を過ぎ会社のさらなる発展を目指して組織変更!!
という理由ならきっと普通なんでしょうが弊社の場合は 組織変更しなければならない特別な理由はありませんでした。
今、振り返ってみると株式会社の方がなんと
なくかっこいいじゃん!?
そんな単純な理由だった気がします。
平成23年3月11日
東日本大震災発生
テレビで放送される被害状況を見て弊社には何が出来るのだろう!?
そこで私の起こした行動は弊社のトラックで救援物資輸送が出来るように警察署で東北方面への緊急車両の通行許可を取得しました。
それと並行して被災地の情報収集したところ宮城県海岸部にはたくさんの島があり そこに取り残された方々が多数いるという事がわかりました。
陸続きであればトラックでも救援物資を届けられるが陸が続いていない島ではトラックでの輸送は不可能です。
そこで弊社には社有のヘリコプターがあり私自身がパイロットであります。
ヘリコプターであれば孤立してしまった被災者に直接届ける事が可能になります。
そこから弊社のブログを使ってPRし救援物資の受け入れを弊社にて24時間体制で開始しました。
今でも当時のブログがそのまま残っていますのでお時間があるときにでもご覧ください。
陸路で宮城県の菅生サーキットまでトラックで救援物資を運び、そこからヘリコプターを使って孤立してしまった被災者に救援物資を届ける、このミッションを通じて初めて弊社が社会貢献出来たような気がします。
現在
最近になってよく取引先様から質問を受ける事ですが
「なぜ、ケイエムさんは平ボディ車なんですか?」
年々、ウイング車が増えていく中、初心忘れるべからずというのが常に私自身にありました。
何事にも始まりがあります。1台の中古4トン平ボディ車を取得し全国を走り回った。
これが私の原点ですこれを忘れてしまっては今の自分はありません。
今後も弊社の主力は平ボディ車とし取引先様のお役にたてるよう頑張っていきたいと思います。
どうぞこれからも変わらぬご支援のほどお願い致します。
代表取締役CEO 久保山 久徳